Paranoia Diary

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自然と人類、死闘の記録 -羆嵐 書評-

 熊という生き物は割と身近なようでそうでもない生き物である。都会に住んでる人なら動物園ぐらいしか見た事がないし、首都圏近郊では余程山奥に行かない限りは「近くに熊が出た」なんて情報は聞かないだろう。田舎になってくると熊という生き物は多少身近になるが、それでもたまに猟友会が始末したり町内放送で熊出るから気をつけろよという放送があったりするぐらいだ。実際、生まれ育った地元はそうだった。

 そう考えると熊の恐ろしさというのはいまいちピンと来ない。最近のニュースでは死亡までに至る重大事故は少なく(それでも熊牧場で大事件とかあったりしたが)、自然における猛獣というイメージは薄れがちである。だが、そんなイメージを覆す脅威のノンフィクションがある。三毛別という言葉だけでもピンと来る諸氏もいるだろうが、あの事件を題材にした作品である。

 小説家、吉村昭が77年に出版した今作は、日本の記録史上最大の獣害のひとつ、三毛別の羆事件を題材にした小説である。登場人物の名前等は変更されているが、その筋書きは史実を忠実になぞらえている。尤も、日本語ウィキペディア版のページでも相当詳細かつ読み応えありの記事なのでそっちの方が早く概要を知れるが、事件を端的に説明するなら、明治が終わってすぐの大正4年に、北海道の三毛別にで開拓民が冬眠に失敗した羆に襲われ、7名が命を落としたという痛ましい事件である。その事件を風化させまいと人々が尽力し、資料や言い伝えが残された結果、今日に至るまで三毛別の事件は語り継がれている。

 当時、北海道はまだ未開の地も多く、人間が踏み込んでいない領域も数多く存在した。その中の小さな集落、三毛別村には開拓民が住んでいた。むろん大自然のど真ん中にあるその集落では生活こそ厳しかったが、人々は逞しく生活していた。しかし、そんないつもの冬に大事件が発生する。冬眠に失敗した羆が村へ現れたのだ。冬眠できず、食料も無く空腹の羆は三毛別にて餌――人間を見つけた。そして、ついに犠牲者が出てしまう。人を食べた事で人の味を覚えた羆は、さらに村人を立て続けに襲っていく。

 羆の習性に対する無知、心細い開拓民たちの武装、孤立無援で助けすらまともに出せないような偏狭の地――突然現れた自然の猛威を前にただ無力をかみ締めるしかない村人たちの無念と恐怖がありありと描写されている。ついに応援の警官がやってくるが、その警官ですら、羆を前には成すすべも無く手も足も出ない。この流れはまさにモンスターパニックであるが、この作品の根底にあるのは自然の脅威と人間の無力さだ。その無力さに人々が打ちのめされる中、どうすればあの羆を、この自然の力に報いる事が出来ようか?

 そんな中、今作のキーマンである山岡銀四郎(マタギ、史実での名前は山本兵吉)が村の救世主として現れる。数多くの羆を屠り、山と自然に精通する、荒くれ者の日露戦争帰りの男。まさにアウトローを地で行く男が、史上最凶の羆を追跡していく。そこでようやく、人と自然の対等な戦いが始まる、そして、その戦いの行方は――

 手に汗握る小説である。史実を元にしたというか名前が違う以外はほぼ史実そのままな作品であるが、北海道開拓時代の小さな村と山を舞台に繰り広げられる人間と自然(熊)との壮絶な戦いが最初から最後まで続いていく。とはいえ実際の羆を見る限りでは少々サイズが盛りすぎやしないか、という疑問も浮かぶ人もいるが、とにかく羆の恐ろしさ、それに立ち向かう人々の知恵と勇気と挫折、天才的な孤高の熊撃ちと羆の一騎打ちというクライマックス、すべてが緻密な描写とスピード感ある流れで続いていく。

 最近紹介した「ゴールデンカムイ」もそうだが、改めて恐ろしい獣としての羆を前面に打ち出す作品や、某番組でも三毛別事件が取り上げられた事もあり、今から読むのもタイムリーでいいかもしれない。

羆嵐 (新潮文庫)

羆嵐 (新潮文庫)